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幕四 朝の門前にて

last update Last Updated: 2025-12-22 18:27:55

 朝は、すべてを終わらせた後にやってきた。

 霧の残る小道に、木々の影が長く伸びる。

 夜と朝の境目が混ざり、世界の輪郭がぼやけていた。

 セレスタ・ホームの裏山、その奥にある古い祠から、ひとりの修道女が、少女を抱きかかえて戻ってきた。

 少女は軽く、冷たく、それでいて確かに生きていた。

 修道女は施設の玄関に入ると、慌てたように院長を呼ぶ。

「……祠の前に、ひとりでいました」

 声が震えていた。

 それでも少女を抱く腕だけは、しっかりと力がこもっていた。

 院長が現れ、静かにその顔を見下ろす。

 目の前の少女は眠るように目を閉じていた。

 皮膚は透けるほど白く、呼吸はかすかに上下する。

 だが、その唇からは音が生まれない。

 修道女は言葉を続けた。

「この子……名前がありません。持ち物も、印章も」

 院長はゆっくりと頷く。

 そして、何も言わずに腕を差し伸べた。

 抱き取られた少女の身体はわずかに揺れたが、目を開くことはなかった。

「……名がないなら、呼び名を与えましょう」

「呼び名があれば、人はここで生きていける」

 静かな声。

 それは決して祝福ではなく、ただ“生活”のための言葉だった。

 院長は少女の髪に触れ、息を整える。

 窓から差す光が、彼女の指先に触れる。

 それは、まだ冷たい朝の光だった。

「この子を、アラーナと呼びましょう」

 修道女はその名を繰り返した。

「アラーナ……」

 小さく、確かめるように。

 その声に反応するように、少女の指がわずかに動いた。

 ほんの一瞬。

 けれど、その微かな反応だけで十分だった。

 院長は目を細め、短く祈る。

 祈りは言葉にはならず、唇の動きだけが残った。

 その日から、少女はアラーナと呼ばれながら生きることになった。

 名ではなく、呼び声だけを与えられた存在として。

 やがて、街の片隅に子どもたちの間に遊びのための歌が広まった。

 誰が最初に言い出したのかはわからない。

 それでも、その響きはゆっくりと街に溶けていった。

 ねぇねぇ おしえて

 だれのなまえが きょうはきえるの?

 しらないこえが ふりむいたら

 くびが ころん おちるから

 なまえはかくして ほら うたおう

 しんだふりして ねむろうよ

 それは、名を呼ばれないための歌だった。

 声を持たないための祈りでもあった。

 そしてその中心には、名を封じられた少女の影があった。

 朝の光が差し込む。

 窓辺のカーテンが揺れ、埃が光の中で漂う。

 誰も気づかないまま、その“始まり”が、静かにそこに存在していた。

(つづく)

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  • その刃は、声なきままに首を断つ   幕七 名を呼ぶ記憶

     夜の空気は冷たく、湿っていた。 アラーナは人気のない路地を、変わらぬ歩調で進んでいく。 足音は一定で、呼吸と同じリズムを保っていた。 誰も彼女に近づかない。 すれ違う者がいても、影を見ただけで視線を逸らす。 この街では、名前を持たない者たちが祈る。 声に出せない願いを、紙に書けぬまま胸にしまう。 そして、夜のどこかで子どもたちが歌を口ずさむ。 女神さま、首だけでいい…… 名前を差し出すから、あの人を連れていって…… それは最近、この街で流行しはじめた“うた”だった。 誰が最初に口にしたのかはわからない。 子どもたちは意味も知らずに遊びながら歌い、大人たちは静かに聞き流している。 けれど、アラーナはその旋律を確かに“感じていた”。 耳に届くというより、空気の振動として。 言葉より先に、街全体がその節を覚えているようだった。 瓦屋根の上。 古びた窓の下。 濡れた石段の影。 どこで誰が歌っているのかはわからない。 それでも、その声は確かに沈黙街のどこかで息づいていた。 アラーナは歩みを止めた。 一歩だけ。 それ以上でも、それ以下でもない。 足元に、小さな水たまりがあった。 濁った闇が鏡のように光を返し、そこにぼんやりと浮かぶ輪郭。 自分の姿ではない。 知らない誰かの顔。 それが、ほんの一瞬だけ映ったように見えた。 アラーナは目を細め、息を吸う。 夜の湿度が肺の奥に沈む。 胸の奥で、何かが微かに疼いた。 声ではない。 名でもない。 ただ、呼ばれた気配のようなもの。 それは記憶と呼ぶにはあまりにも曖昧で、感情と呼ぶにはあまりに冷たい。 けれど確かに、彼女の中で何かが反応していた。「……知ってるわよ、そんな話」 小さく呟いた声が、路地の石壁に吸い込まれる。 その響きは言葉ではなく、吐息に近かった。 街の空気が、それに応えるようにわずかに揺れた。 遠くで犬が吠える。 風が看板を鳴らす。 そのどれもが“うた”の続きのように聞こえた。 子どもたちの歌は、願いの形にも似ている。 誰かの名を差し出せば、死神がその者の首を持ち去ってくれる。 そんな噂が、街の隅々まで染み込もうとしていた。 アラーナは空を見上げた。 月は雲に隠れ、光はない。 夜の輪郭がゆっくりと滲んでいく。「……忘れたわ」

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